ことばを脱ぐ

最近、台所で日記をつけている。

2年続けた「10年日記」をやめ、普通の小さなノートに買い替えたのはつい先週のこと。毎日毎日「◯年前の今日」を振り返るのは、成長を強いられているようで、なんだか気持ちが重くなったので。

それでわかった。どうやら自分にとっては、「残す」ことより「記す」ことのほうが大切らしい。

書き記すことは、区切りをつけること。出来事に、人とのやりとりに、生まれた感情に、仮のことばを与えて書き納める。文字にする過程で、少しずつ少しずつ「わたしの一部だった何か」は外側に引き出されていく。インクが乾いた頃にはもう、別のもの。まるで誰かに撮られた写真のよう。

このサイトも同じ。1記事1テーマと決め、時々の出来事と思考を書き納めることを大切にしてきた。読み手のほうが内容を覚えていることも多く、たまにドキッとする。

まるで脱皮だ。記録することで身からことばを脱ぎ落とし、新しい皮膚を外気にさらしては、にゅるにゅる進む。そんな感じ。

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(亡くなった父方の祖父の記録帳。わたしの記録癖は祖父ゆずり、かも)


ところで、そんな脱ぎっぱなしのことば達が今、友人で劇作家であるNさんによって再構成されつつある。とある出版物で『家を継ぎ接ぐ』が家と幸福と呪い(!)を考察するためのケーススタディとして取り上げられる、らしい。

それだけでも予想外の展開だけど、Nさんの原稿を読んでさらに驚いた。「家」にまつわる大量でバラバラのことばが丁寧に集められ、ひとりの女性の物語としてきちんと立ち上がっていたのだ。本人が無自覚だったこともふくめ、この暮らしと人生の「筋」が整えられている。切り口は鋭く、時系列とニュアンスは正しく。しかも深い優しさが感じられる。Nさんは一体どうやって、他者の物語を味わい、飲み込み、彼女独自の筋として編み直すのだろう。工程がまったくわからない。不思議だ。

その彼女の文章に添える形で、わたしも1本、エッセイを書かせてもらった。このサイトでは書いてこなかった……というより、書けなかったトピックを実名入りで。

書いてしまったなぁ、と思う。一瞬ためらったけど、覚悟が決まったので放った。それは個人の信条や家族観によっては受け入れがたい話かもしれない。もしかしたら心離れる友人や知人がいるかもしれない。

だけど、わたしがずっと言い淀んでいたように、心の中に同じようなことをギュウと圧縮している人もいるはずだ。それなら代表して書いてみようと思った。わたしはもはや、何かを失うほど“抱えて”いないし、ズレから来る寂しさにも耐性がある。そして自分が脱ぎ落としたことばの責任ぐらいは待てる。

レイアウトされた原稿を読み返し、今回は随分脱いだなぁ、と、他人事のように感じた。それもプロに手伝ってもらったのだから勢いが良い。おかげで、ここ数年ずっと悩んでいたり、未練のあったことに大きな声で「さよなら」と言えた気がする。

新しい皮膚はヒリヒリと大気を感じている。だけどまた、そのうちに分厚くなる。大丈夫。そしてまた、重なったら脱げばいい。

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